新緑の箱庭

日々の雑感の掃きだめとして。

輝き

 この仕事は忙しい。特に今年は担任のクラスを持って、朝から毎日ドタバタが止まない。でも、たまにこんな日がある。

 

 ある水曜日のNくんの日記。
 「家にツバメが巣を作りました。中にヒナがいるようです」
 木曜日。「母ツバメがヒナに餌をあげていました。早く大きくなるといいです」
 金曜日。「夜外に出たら、巣からツバメのピッピッという泣き声が聞こえました」

 普段は物静かでクールな彼だが、連日この話題に触れるということは、よほど気に掛けているのだろう。意外な一面に思わず微笑んでしまう。
 その後土日を挟み、クラスの雰囲気がテスト一色に移り変わった頃、いつものように全員分の日記を点検していると、Nくんのページには米粒のような字がびっしり並んでいた。

 「ベランダのフンがひどかったので市役所に掃除を頼んだら、巣は取り壊され、ヒナは山に捨てられてしまいました。母ツバメが巣の無くなったところにやって来て、いつまでもヒナを探していました。とても悲しいです。まさかこんなことになるなんて思わなかった。それでも、悪いのは僕たちだ」

 学校から帰ってきたNくんが、巣の跡を呆然と見上げている姿が目に浮かんだ。

 

 クラスには、今週まで教育実習生のI先生が来ていた。彼は音大で声楽の勉強をしている。金曜の終礼でお別れ会をする旨を伝えると、彼から申し出があった。
 「実習の御礼に、クラスで一曲歌わせてもらえませんか?」

 実際のお別れ会の場では、彼はクラスから寄せ書きの色紙を受け取った後、こんな話をし始めた。
 「皆さんに伝えたいことは、後悔のない人生を送ってほしいということです。僕は高校時代、自分と向き合って、本当にやりたいことは何かを考えました。そうして、高校3年から音楽の道を目指し始めました。結果、浪人もしたけど……今僕は、ミュージカル俳優になるという夢に向かって全力で頑張っています。二十数年生きてきて、僕はこれで良かったんだと、心の底から思います。」
 そうして彼は歌い出した。「ノートルダムの鐘」だった。
 教室の隅から隅へ駆け回り、大きく身振り手振りをしながら歌う彼を見かけて、教室の外に人だかりができる。みんな彼から目を離せないでいた。
 彼は本気だった。一挙手一投足に熱が籠もり、クラスの生徒を圧倒していく。
 その瞳の美しいこと。全身から滾る輝きの満ち満ちたこと。
 最後の猛々しいアラルガンドが空中に消えた瞬間、教室から盛大な拍手が起こった。

 

 放課後、一人の女子生徒が質問にやって来た。Hさんだった。
 「古文の過去と完了ってどう違うんですかぁ?」
 甘えん坊で人懐っこい彼女は、いつも通りに振る舞っているようで、少し元気がなかった。どうやら、要領を得ない質問が本当の用事ではないようだ。
 少し話していく? と椅子に誘うと、彼女はおとなしく座って、ポツポツと話し出した。
 「幼稚園から幼なじみだった子がいるんですけど」
 つい最近、亡くなった、と連絡が入ったのだという。彼女は彼を「よっちゃん」と呼んだ。最近身長抜かれちゃったんですよね、と彼女は笑った。
 窓辺から風に揺れる木の枝が見える。傾いたオレンジ色の光が、Hさんと私を照らしている。
 「なんで亡くなったか、教えてもらえないんです。家族葬だからお葬式にも行けないし。でも、身体が弱かったわけじゃないし、事故って話も聞かないし。だったら……」
 言葉を切る彼女。口には出さないが、彼が亡くなった理由を何となく察しているようだった。
 生徒の話を聞くことは、消えそうなたき火を見つめるのに似ている。彼らの胸に燻っている微かな炎を消さないように、静かに、その揺らぎを注視する。こちらが言葉を奪ってしまえば、水を浴びせたように生徒は何も話さなくなってしまう。こちらにできるのは、優しく風を送るように、折を捉えて相槌を打つことだけだ。
 いつものおどけた笑顔が少し影を潜め、瞳が潤む。
 「……何か私にできること無かったのかなぁ、って思っちゃって」
 私は何も言えなかった。その代わり、右手を彼女の肩にそっと添える。
 だが、沈黙に耐えかねたのか、そこで彼女はパッと表情を崩した。「こういうとき、先生だったらどうしますか?」
 彼女自身も、言いたいことをまとめるのにまだ時間が必要なようだった。急に会話のボールをパスされ、一瞬逡巡する。
「そうだね……」
 脳裏に、父の姿が浮かんだ。ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「四十九日が終わったら、お線香を上げに行きたいかな。……自分の気持ちの整理になるからね」
 彼女は、そんなもんか、という顔をしていた。
 この言葉の意味を分かってもらうには、きっともう数年時間が必要だろう。それでも、いつか必ず彼女も理解する日が来る。人の命とは、死とは何かを、自分の言葉で。
 またいつでも話においでと声を掛けて、私は彼女を見送った。

 

 この仕事は忙しい。休みもあまりないし、常に1分を争って走り回っている。周りの友達からも、「大変そうだね」「よく続いているね」と哀れむように言われる。
 それでも、私は彼らの輝きが好きだ。たった三年の、汚れを知らない、柔らかな命の輝きが。