新緑の箱庭

日々の雑感の掃きだめとして。

梅の実

梅の実が潰れてくれない
果肉はもげて腐り
嫌な臭いを発しているのに
どうにも 中の種が硬くて

梅の実が潰れてくれない
いったいどこで間違ったのか
木を植えたところから?
この土地に来たところから?

梅の実が潰れてくれない
もうここには誰もいない
走って逃げて 逃げて逃げて
なのに手の中には梅の実がある

両の手のひらで握りしめても
梅の実は潰れてくれない
ひとりの力では

梅を素直に好きだと言えたら
梅の実りを祝福できたら
よかったのにな

長い間

長い間

ずっと一人で

踊り狂っていたことが

周りから

ピエロとして

笑われ

憐れまれ

居心地悪そうに目を逸らされていたことが

こんなにもみじめで

恥ずかしいなんて

知りたくなかった

 

爽やかな初夏の風に吹かれるとき

雲の切れ間の眩しさに目を細める時

いつもわたしのこころの底には

色鮮やかで

新鮮な腐乱臭を撒き散らす

にくしみがたまっている

 

報復は何も生まないなんて言うけれど

いつまでもそこにいるから

死ぬまで忘れてやることなんてできないのだ

 

わたしはわたしの穴をにくむ

虚を覗き込み

胸いっぱいにおいを吸い込んで

輝き

 この仕事は忙しい。特に今年は担任のクラスを持って、朝から毎日ドタバタが止まない。でも、たまにこんな日がある。

 

 ある水曜日のNくんの日記。
 「家にツバメが巣を作りました。中にヒナがいるようです」
 木曜日。「母ツバメがヒナに餌をあげていました。早く大きくなるといいです」
 金曜日。「夜外に出たら、巣からツバメのピッピッという泣き声が聞こえました」

 普段は物静かでクールな彼だが、連日この話題に触れるということは、よほど気に掛けているのだろう。意外な一面に思わず微笑んでしまう。
 その後土日を挟み、クラスの雰囲気がテスト一色に移り変わった頃、いつものように全員分の日記を点検していると、Nくんのページには米粒のような字がびっしり並んでいた。

 「ベランダのフンがひどかったので市役所に掃除を頼んだら、巣は取り壊され、ヒナは山に捨てられてしまいました。母ツバメが巣の無くなったところにやって来て、いつまでもヒナを探していました。とても悲しいです。まさかこんなことになるなんて思わなかった。それでも、悪いのは僕たちだ」

 学校から帰ってきたNくんが、巣の跡を呆然と見上げている姿が目に浮かんだ。

 

 クラスには、今週まで教育実習生のI先生が来ていた。彼は音大で声楽の勉強をしている。金曜の終礼でお別れ会をする旨を伝えると、彼から申し出があった。
 「実習の御礼に、クラスで一曲歌わせてもらえませんか?」

 実際のお別れ会の場では、彼はクラスから寄せ書きの色紙を受け取った後、こんな話をし始めた。
 「皆さんに伝えたいことは、後悔のない人生を送ってほしいということです。僕は高校時代、自分と向き合って、本当にやりたいことは何かを考えました。そうして、高校3年から音楽の道を目指し始めました。結果、浪人もしたけど……今僕は、ミュージカル俳優になるという夢に向かって全力で頑張っています。二十数年生きてきて、僕はこれで良かったんだと、心の底から思います。」
 そうして彼は歌い出した。「ノートルダムの鐘」だった。
 教室の隅から隅へ駆け回り、大きく身振り手振りをしながら歌う彼を見かけて、教室の外に人だかりができる。みんな彼から目を離せないでいた。
 彼は本気だった。一挙手一投足に熱が籠もり、クラスの生徒を圧倒していく。
 その瞳の美しいこと。全身から滾る輝きの満ち満ちたこと。
 最後の猛々しいアラルガンドが空中に消えた瞬間、教室から盛大な拍手が起こった。

 

 放課後、一人の女子生徒が質問にやって来た。Hさんだった。
 「古文の過去と完了ってどう違うんですかぁ?」
 甘えん坊で人懐っこい彼女は、いつも通りに振る舞っているようで、少し元気がなかった。どうやら、要領を得ない質問が本当の用事ではないようだ。
 少し話していく? と椅子に誘うと、彼女はおとなしく座って、ポツポツと話し出した。
 「幼稚園から幼なじみだった子がいるんですけど」
 つい最近、亡くなった、と連絡が入ったのだという。彼女は彼を「よっちゃん」と呼んだ。最近身長抜かれちゃったんですよね、と彼女は笑った。
 窓辺から風に揺れる木の枝が見える。傾いたオレンジ色の光が、Hさんと私を照らしている。
 「なんで亡くなったか、教えてもらえないんです。家族葬だからお葬式にも行けないし。でも、身体が弱かったわけじゃないし、事故って話も聞かないし。だったら……」
 言葉を切る彼女。口には出さないが、彼が亡くなった理由を何となく察しているようだった。
 生徒の話を聞くことは、消えそうなたき火を見つめるのに似ている。彼らの胸に燻っている微かな炎を消さないように、静かに、その揺らぎを注視する。こちらが言葉を奪ってしまえば、水を浴びせたように生徒は何も話さなくなってしまう。こちらにできるのは、優しく風を送るように、折を捉えて相槌を打つことだけだ。
 いつものおどけた笑顔が少し影を潜め、瞳が潤む。
 「……何か私にできること無かったのかなぁ、って思っちゃって」
 私は何も言えなかった。その代わり、右手を彼女の肩にそっと添える。
 だが、沈黙に耐えかねたのか、そこで彼女はパッと表情を崩した。「こういうとき、先生だったらどうしますか?」
 彼女自身も、言いたいことをまとめるのにまだ時間が必要なようだった。急に会話のボールをパスされ、一瞬逡巡する。
「そうだね……」
 脳裏に、父の姿が浮かんだ。ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「四十九日が終わったら、お線香を上げに行きたいかな。……自分の気持ちの整理になるからね」
 彼女は、そんなもんか、という顔をしていた。
 この言葉の意味を分かってもらうには、きっともう数年時間が必要だろう。それでも、いつか必ず彼女も理解する日が来る。人の命とは、死とは何かを、自分の言葉で。
 またいつでも話においでと声を掛けて、私は彼女を見送った。

 

 この仕事は忙しい。休みもあまりないし、常に1分を争って走り回っている。周りの友達からも、「大変そうだね」「よく続いているね」と哀れむように言われる。
 それでも、私は彼らの輝きが好きだ。たった三年の、汚れを知らない、柔らかな命の輝きが。

竜 ~どまこん8感想~

 

 

 合唱団とは生き物だと思う。

 

 団員一人一人が個体差のある細胞で、指揮者の拍動によって一斉に呼吸し、音楽を奏でる。指揮者のいない団体の場合は、原核生物のように全身が心臓になって、リズミカルに伸びたり縮んだりしながら旋律を紡ぐ。そんなイメージ。

 

 いつかの全国大会のどこかの強豪団体の演奏を聴いたとき(CAさんだったかもしれない、ちゃんと調べるべきだが……)、この感覚が比喩でなく、実際に目の前に幻覚として現れたのを良く覚えている。一糸乱れぬダイナミクスの波動、高声から低声へ何度も往復する声のエネルギーが、私には竜のように見えた。ホールの残響を支配して、合唱団の上を飛び回る大きな竜。

 ホールの空間を媒介して、私の精神は身体から離れ、竜と融け合う。心が透明になって、音楽の色に染まって、自在なアーティキュレーションになぞられるまま、連動して身体が震え、涙が誘われる……。

 

 私にとって、音楽に心を震わせるとはそういう経験のことだったなと、久方ぶりに思い出した。

 

 夢にDomaのメンバーが出てきた。発端はそれだったような気がする。もう知り合いの団員の方が少なくなっているが、懐かしくて大好きな顔ぶれだった。

 コロナ禍になって3年、職場の関係もあり、私は不要不急の外出自粛を言葉通りに守って、一切県外へ足を運んでいなかった。あのとき一緒に歌ったメンバーとは、画面の文字や音声でやりとりすることはあっても、その姿を実際に見る機会は全くなくなっていた。

 また、そろそろ生で上手い合唱を聴きたいという欲も高まっていた。自分が指導する部活動でも、新入部員が増えて指導のテコ入れが必要になる。自分に目的意識がなければ、上手く生徒を導くこともできない。

 なら、行くか、どまこん……? と、前日の部活の時に思った。

 

 衝動を抑えきれず、全く無計画に自由席のチケットを買って新幹線に飛び乗った。久方ぶりの博多駅は土地勘を完全に忘れていて迷子になりかけた。飛び乗ったJRがたまたま区間快速だったので無事に最寄り駅に着いたようなものだ。特急に乗ってスルーしていた可能性もある。

 福岡に来るのってこんなに大変だったっけ……? と思いながらホールの座席になんとか座る。ちらほら知り合いがいる気がするが久しぶりすぎて話しかける度胸が全くない。できるだけ存在感を消す。

 

 ブザーとともに団員の皆さんが入場して、演奏はすぐに始まった。

 一曲目の武満徹から、いい音がしていた。

 目をこらすと、久しぶりに姿を見る先輩の姿がちらほら。皆さん昔と変わらない、いい表情で歌われていた。Domaに在籍していた期間はほんのわずかな間だったのに、ふいに懐かしさがこみ上げ、意識が過去へ飛ぶ。

 何年も前、自分もあそこにいたんだよな。心がそのまま溢れるような演奏に憧れて、一緒に歌わせてもらってたんだったなぁ。

 二曲目のButterflyでは、一気にDoma得意の複雑な和音がホールに鳴り響く。pの緊張感も見事だった。これだよ、これ! 今の自分では再現できない繊細さに思わず歯がゆくなる。これ、うちの部でもやりたい。

 専門的な音楽指導どころかピアノすら弾けない自分では、正直きちんとした指導なんて無理だろう。でも、このパッションは。この快感は。この団で歌ったことがある人間でなければ分からないだろう。これこそが命を削って出すハーモニーだ。この良さを、なんとかして生徒に伝えたい。胸が熱くなった。

 

 日本語ステージでは、自分も歌ったことがある分、落葉松とねがいの表現に持って行かれた。榎本さんのピアノも素晴らしかった。手元の見える位置に座った自分を褒めたい。

 わずか数小節の間に、めまぐるしく変わる曲のドラマ。いい和音が鳴るたび、ステージの皆さんの表情が感極まるたび、私の心臓もキツく収縮し、涙が出た。ああ、ホールで合唱を聴くっていいなぁ。

 身体から精神が乖離し始めていた。旋律の色が見える気がして、伸びる声に合わせてホールの天井を見上げていた。Domaの音楽が、生きて動いてそこにいた。

 

 第2ステージのウィテカー、第3ステージの「歌が生まれるとき」もそれぞれ素敵だったが、印象に残っているのは終曲のアポロンの竪琴だった。力強い言葉とまっすぐなハーモニーが、Domaの若くて明るい歌声によく似合っていた。あぁ、合唱って、こんなに幸せなものだったんだなぁ。私も幸せな合唱がしたい。二時間があっという間だった。

 

 感染対策には気を遣うべきだったので、終演後はほとんど誰とも喋らずに16時半の新幹線に乗った。たまに私を視認した知り合いが「え?」という顔をするのが面白かった。確かに、何でいるの? って思うよね。多分見間違いだよ。うん。

 

 もう福岡の合唱界に戻ることはできないけれど、自分が過去にそこにいて、今もその場所で素晴らしい音楽が生まれているという事実に、ひどく勇気づけられた気がした。世界は狭い。もしかしたら、歌い続けてさえいれば、いつかどこかでまた一緒に歌う日も来るかも知れない。その時は、私もいい音楽を携えて行きたい。それまでは自分の場所で、きちんと自分の役目を果たそうと思う。仕事頑張ります。

 

 改めて、ご盛会本当におめでとうございます。

 いつかまた、一つの竜になれますように。

 

GWが終わる

 しんどい。


 久々の投稿でこんなネガティブな話題もどうかと思うが、結構しんどい。


 他人と会うのがしんどい。家族とも、親とも会うのがしんどい。放っておいてほしい。構わないでほしい。一人にしてほしい。


 仕事はしんどい。終わらない。常にやることが脳内にこびりついていて、それだけでしんどい。やれば終わるのはわかっているが、それだけ時間がかかると思うだけでしんどい。時間がないのがしんどい。


 時間ができても、何かやらないことがあると思うだけでしんどい。ベッドの上から動けない。夜のうちに風呂にも入れないし、電気を消して寝ることもできない。朝方に起きて、慌ててやらないといけないことをこなしている時が1番早く動ける。でもそれも追い立てられているから楽じゃない。終わると疲れてしんどい。


 彼氏から「お疲れ様」「今日は何してた?」ってLINEが来るのがしんどい。マジで興味がない。興味がないことに付き合って機嫌良く返信してやるのがしんどい。本当は既読無視したい。できたらどんなに楽だろう。顔文字ひとつつけるたびに気がおかしくなりそう。でも紹介してもらった手前、無碍にするわけにはいかない。


 別に彼氏なんか今の生活に必要ないけど、周りがガンガン結婚して、自分も30近くなって、「誰かいい人いないの?」って言われ続けるのもウザすぎてしんどいね。自分の人生に対する焦りを消すために我慢しないといけないしんどさなのかな。でもその先も、ずっとしんどかったら? どうなっちゃうんだろう。


 休みのたびに、それがだんだん終わっていくのがしんどい。土日があっても大体部活で午前中潰れて、そのまま午後も学校で仕事するから、気づいたら一日終わってるのも憎たらしい。日曜も大体昼前に起きて掃除とか家事して、予習しなきゃってグズグズして実家に顔出したら大体終わってるから、休んだ感じはあんまりない。何にも追い立てられずに、ぼーっとする時間が欲しい。


グズグズしたくないのに、気力がついていかないのがしんどい。テキパキやれば、やるべきこともやりたいこともできるはずだけど、仕事の時に全力出し切ってるからプライベートまでテキパキできない。結果休みが消えてしんどい。


年度末に恩師の先生の家に伺った時、「あなたは高校時代から気を使いすぎていて、今はもっとひどくなってる。周りの価値観に合わせるんじゃなくて、もっと『自分』を持たないとダメ」って言われたけど、そういう御託に笑顔で頷いてるのが既にしんどかった。一番自分らしくいられる時があるとしたら、それは誰にも会わずに家に引きこもってる時だよ。


本当に、誰も、私に構わないで欲しい。一週間くらい一人にして欲しい。おわり。

28歳

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今年の誕生日で28歳になった。


世間的に言えばもう立派なアラサーであるが、同僚の先生から誕生日プレゼントをもらったり、ケーキを買ってお祝いしてもらったり、幸せな1日を過ごしたと言えるだろう。

もう10年近くやっているTwitterにも、親しい知人からお祝いのメッセージが届いた。自分はあまり筆まめな方ではなく、知り合いの誕生日にきちんとお祝いを述べることをしてこなかったために、嬉しさ半分、申し訳なさ半分といったところだ。今年こそは少しは他人に気を配ろうと思い直す。


思えば数年前までは学生だったのだが、その頃は大学内でSNSが非常に流行っていた。300人以上のフォロワーとつながり合い、誕生日ともなれば、先輩や後輩、同輩からのメッセージで1日中通知が鳴り止まなかったものだ。嬉しくはあるが、流石に返事をする方はかなり大変だった。SNSでの機械的な祝いのメッセージが苦手になったのも、この経験が元になっているのかもしれない。


SNSのつながりと言うのはひどく手軽ではあるが、はっきり言って脆いもので、フォロワー欄を見れば、今では全く連絡を取らなくなった見知らぬ誰かのアカウントの残骸が並んでいる。そもそももうこのアカウントの持ち主はTwitterにはいないのだろう。自分だけがSNSから離れられず、いつまでもTLにしがみついているような気がして、勝手に虚しくなり、人間関係の干物とも呼べるフォロワーのアカウントを一つ一つリムーブしたこともあった。フォロワーが10分の1に減った自分のアカウントは、料理関係の動画と今もリアルで連絡をとっている友人のツイートがたまに23つ流れてくるだけの大変寂しいものだったが、それが逆に私をせいせいさせてくれた。


一方、別の非公開アカウントに顔を出せば、そこには10年来ひたすらそれぞれ呟き続けている旧知の友人たちが、今日も勝手に何かに夢中になり、楽しそうに荒れ狂う姿を見せてくれる。直接リプライを飛ばす事はないが、同じ話題についてつぶやけば、やまびこに返事をするように気の置けない反応が返ってくる。直接会うことはなくても、心地良い空間がそのTwitterの中にはいつも広がっている。


公開アカウントの方でつながっていた300人とも、別に仲が悪かったわけではない。ただ、一緒に過ごしていた環境が大学卒業によってなくなり、ライフステージの変化によって相手には夫ができて、子供が生まれ、家を建てているのに対し、こちらにはそのような出来事は一切なく1Kのアパートでゴロゴロしており、300人がそれぞれの人生を歩き出したのだな、と言う感慨が強く胸に湧いてきただけだ。自分の人生さえままならない中で、全く別のルートの途中にいる他人の幸せを眺めて何になるだろうか?  彼らとは、道の交差点でたまたま同じひとときを過ごしただけであって、もともといつまでも一緒にいるような関係ではなかったのだ。


そのような中で、長い間一緒に寄り添ってくれる友人とは、なんと貴重な存在であろうかとこの歳になってつくづく感じる。連絡を取ってくれること、こちらに興味を持ってくれること、並走している道の向こうから手を振ってくれること、全てが相手への関心なくしては成り立たない貴重な出来事だ。


「誕生日おめでとう」のメッセージをもらうたび、現実でもインターネット越しでも、そばにいてくれる人たちのありがたさを噛み締める。そうして、私は今日も30代までの残り少ない時間を、一日一日過ごしていく。


自分の周りにいる全ての人があたりまえの存在ではなく、きっといつかは別れていく時が来るのだから。その時まではこの縁を目一杯楽しみながら、私は、私の人生を生きる。

父の話

 

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 幸運を電波に乗せてきらきらと死にゆく父のそばへ届ける(2017/05/21)

 

 優しくて、おおらかな父だった。

 ガソリンスタンド勤めで、昼も夜も休日もなく働いていた父は、仕事帰りに必ずコンビニに寄って、私と弟におもちゃやお菓子を買ってきてくれた。

 ガサガサというビニール袋の音が、帰宅の合図。寝床でまどろむ私たちは、飛び起きて「おかえりー!」と父の元へ(正確にはお土産の元へ)駆け出していた。

 

 母には怒られていることの方が多い父だった。

 何度言っても、家のパソコンや家電や家具を勝手に買い換えてしまう。母がどれだけ声を張り上げても、へらへら笑っている。そして私たちには、ポケットの小銭やどこからダウンロードしてきたのかわからないオリコンヒット曲の自作CDをくれる。お金があるのかないのかも分からなかったが、やはり父は優しかった。

 

 たまにある休日には、公園や鄙びたダムに連れて行ってくれることもあった。全く釣れない釣りや、下手なゴルフの打ちっぱなしに付き合わされることも。大きな旅行や観光地に行った思い出はあまりない。私が中学生になって勉強ばかりするようになってからは、徐々に話す機会が減っていったように思う。

 東京大学の赤本を見せたときは、「ほんとに受けるの?」と一言言ったきりで、ついぞ進路に口を挟むこともなかった。私は進学を機に実家を出て、そこから父との思い出は途切れている。

 

 

 病気が分かったのは5年前の秋だった。

 初夏を過ぎたあたりから、父は背中の痛みを訴え始めた。湿布を貼ったり整骨院に行ったりしたが、よくならない。病院に行っても、筋膜炎を疑われてそれきり。3ヶ月を過ぎて仕事がままならなくなってから、初めて精密検査を受けた。

 ステージ4の肺がんだと、私は母からの電話で告げられた。

 よく分からなかった。何か大変な不幸が我が家にやってきたはずなのだが、仕事で実家を離れている自分には現実味がなかった。

 告知後に初めて父の顔を見たのは、市立病院のベッドの上だった。父は「大丈夫だよ」と言って、微笑んだ。周りにいる家族だけが泣いていた。

 抗がん剤の投与が始まって、父は入退院を繰り返した。体調の悪い父は、あまり物が食べられない。母があれこれ料理を試しても父の喉を通らず、痛みばかりが酷くなっていった。食卓に残った料理を見て、母はずっと辛そうだった。

 最初の頃、週末はできるだけ実家に帰るようにしていたが、家で待っているのはぐったりした父と、疲れ果てて憔悴しきった様子の母。「大丈夫?」とも、「無理しないでね」とも、「頑張って」とも言えなかった。明らかに大丈夫ではないし、無理しないといけないし、もう頑張れないところまで頑張っているのだ。私は無力で、できることは一つもない。母をこれ以上刺激しないようにするのが精一杯で、いつも逃げるように実家を出た。

 

 実家から離れているのにもかかわらず、ひとりで泣くことが増えた。今一番辛いのは父と母で、私はそこから逃げ出したのに、被害者のふりをする権利すら持っていなかったのに、それでもひとりぼっちの部屋にいると不幸が身に堪えた。私がいくら泣き叫んでも、懇願しても、大好きな父は刻一刻と死に向かっていくしかない。身体の痛みが止むこともない。人生で初めて、逃げ場のない苦しみというものを経験した。

 

 新しい外国人と会うように毎日増える薬の名前(2017/5/29)

 

 年度が替わると、父の病状はいよいよ過酷さを増した。自宅での療養が困難なほど疼痛が酷くなり、緊急入院。肺の腫瘍は野球ボールほどに大きくなり、骨盤や身体全体に転移して、激しく痛んだ。

 月に2回ほどしか実家に顔を見せていなかった私は、「お父さん、死ぬよ」という母の言葉で、やっと目を覚ました。仕事が終わってからJRに乗って、病院の面会時間ギリギリに滑り込み、父の顔を見る生活が始まった。

 

 父は眠っていることが多かった。と言っても、鎮痛剤で昏睡状態になっているだけで、意識のある間はずっと激しい痛みが続く。わずかに意識があるときは、「蘖ちゃん、来たの・・・・・・危ないから無理して来なくていいんだよ」と、力なく声をかけてくれた。やっぱり、父は優しかった。

 家族が病室に泊まり込むことも増えた。鎮痛の薬は、2時間に1回のオキノームと、激しい痛みを治めるためのフラッシュ。看護師の方に任せるのが普通だが、病室に家族がいないと父は不安がった。私の泊まり番の時、父の声で飛び起きて、あわてて薬を水に溶かして飲ませたら、配分がうまくいかず失敗したこともあった。「水の量を考えて」と一言言われたのが、父に怒られた最初で最後の経験だった。

 

 病院食を受け付けない父に、母は何か食べられる物をと考えて、手作りの料理を持ってくる。しかし大抵は何も食べることができず、衰弱は進んでいく。「せっかく作ってきたのに、なんで食べないの」と母は父を罵倒して、あんまりだと思って止めに入ると、父は母の味方をした。私が病気から逃げている間に、もがき苦しみながら癌と向き合っていた二人には、新しい絆が芽生えているようだった。私は部外者で、そこに入り込む余地すらなかった。泣きながら病室を出て、満月の下で帰りの市電を待ちながら、「死ね!」と何度も叫んだ。何に死んでほしかったのだろうか。父に? 病気に? それとも、自分に?

 もう、父に生きてほしいと願うことすら怠慢だと感じた。生きている限り、父は苦しみ続けなければならない。頑張ることをやめることができない。それはあまりにも酷だった。早く眠るように心臓がゆっくり止まって、父を楽にしてあげてほしいと心から思った。それでも心臓は止まらない。命も終わらない。

 生きているのは人間なのに、なぜ命は人間の思いのままにならないのだろう? 結局私たちはいつも、自分よりも大きな存在の何かに振り回されてばかりだ。私たちは肉と筋で包まれた骨の鎖のような物体で、そこにたまたま命のエネルギーが循環しているだけの儚い存在なのだ。意識は脳内の電気信号の閃きで、命が終われば藻屑のように消え去るだけ。優しい父も、そうしてもうすぐいなくなる。

 それに気づいてから、「祈る」という言葉が好きになった。父や母とのラインで、疲れ果てて「ありがとう」も「ごめん」も「頑張って」も、「無理しないでね」も「よくなるといいね」も何も言えないとき、「明日は今日より少しは痛みが取れますように」と書くことはできた。こう書けば、もし癌が悪化しても責任は全部神様が持ってくれて、優しくしたい気持ちだけ父と母に届けられる。明日は少しは眠れますように。物が食べられますように。薬が体に合いますように。それだけ唱えて、後は淡々と暮らした。

 

 副作用なく激痛を和らげる 素敵な薬「死」という薬(2017/05/31)

 

 6月の終わりになると、もう病院で出来ることは残っていなかった。新しい痛み止めが効いて父の身体が少し楽になった一瞬の隙を見計らって、母は父を在宅看護で看るという選択肢を取った。父は家が好きだった。帰りたいというのは、本人の何よりの希望だったのだろう。実家の和室に介護用ベッドと在宅用酸素、車椅子などが次々と運び込まれた。

 病院への泊まり込みの必要がなくなり、毎日の仕事終わりの病院通いをやめたことで、私自身も精神的に少し楽になった。父もこのまま、小康状態を保って生き延びられるのではないだろうかとも思った。

 仕事をしていると、父からはラインでビデオレターが届くようになった。「今日はお母さんに散髪をしてもらいました」「この前の動画は寝ぼけちゃったので、今日はちゃんと目を開けて撮ります」「蘖ちゃん、無理して帰ってこなくていいからね。それでもやっぱり、会いたいけど」死の間際にいながら、父は優しくて、暖かくて、可愛かった。

 7月最初の週末に実家に行くと、父はベッドの上で微笑んだ。まだ五十歳なのに、父の髪は白くまだらになり、太ももにはほとんど肉がなかった。自分で拾ってきて飼いはじめた黒猫を撫でて、うれしそうにしていた。「お父さん、またね」と言って実家を後にするとき、目を細めて、「またね」と、力なく手を振ってくれた。それが最期になった。

 

 父が病気になってから、気が沈んでまともな生活をしておらず、その日も床で眠りこけていた私は、いつものように予習の済んでいない一限目の授業の心配をしながら出勤の準備を済ませた。家を出る直前、ラインが来た。実家に泊まり込んでいる弟からだった。

 「お父さんが、救急車で運ばれた」

 何も感じられなかった。冷静すぎて、逆に奇妙なほどだった。まず学校に電話をかけて、年休の申請をした。次に母に電話をかけると、救急車の中から、「気をつけて来て」と言われた。まるで仕事に行くように家を出て、車に乗り込み、職場とは反対方向の高速のインターへ向かった。

 

 病院に着いたのは、父が息を引き取って三十分ほど後だった。観察室に駆け込むと、父の亡骸を囲んで、母と二人の弟が泣いていた。父は本当に息絶えた直後という様子で、目と口はぼんやりと開き、うっすらと緑色の顔をしていた。油絵で人間を描くときに肌の下地に緑を塗るという話を聞いたことがあるが、理にかなっているのだなと思った。

 手を握ると、まだほんのりと暖かかった。本当に、つい先ほどまでは生きていたのだ。どんなに意識がなくても、痛みにもだえていても、生きてはいたのだ。でも、もう死んでしまった。その事実が、私にはまだ飲み込めなかった。

 泣きわめいている私たち家族に、看護師の方が申し訳なさそうに今後の話をしに来る。母は取り乱していて話が出来そうになかった。弟も夜通し父の看護をしていたのである。家族の中で、私だけが無様に睡眠を取り、意識をはっきりさせていた。売店にLLサイズの浴衣とバスタオルを買いに行って、看護師さんに手渡した。

 葬式まで、あらゆる仕事をこなした。葬儀屋に連絡を取り、父の友人だった住職の寺を検索から無理矢理探し出してお経を上げてもらうよう頼んだ。棺桶を選び終わったあたりで母の友達がどやどややって来てくれて、そこからはすべて順調に進んだ。父はあっけなく焼かれて、骨になった。

 初めて骨を見たとき、生前の父の姿とは全く結びつかず、呆然とした。胸のあたりを見ると、父を苦しめていたあの大きな腫瘍は燃え尽きて見当たらない。やっと父は癌から解放されて、自由になったのだった。

 

 幼いころは、人間の存在は、命が終われば消え去るものだとなんとなく考えていた。しかし、父が死んで丸4年が経とうとしている今でも、私は父の姿や声をありありと思い浮かべることが出来る。スタンド勤めの時に着ていた青いシャツや、くしゃくしゃの笑顔を、容易に思い出すことが出来る。部屋に飾った写真を見れば、辛かった闘病の日々も生々しく蘇る。

 父が生前母に黙って家具や家電を買い換えていた理由も、今ならなんとなく分かる。母は倹約家で、大きな買い物をするときは慎重になり、結局壊れて使えなくなるまでボロボロの物を使い続けるのだ。事前に許可を取ろうとすれば、いらないと言われるに決まっている。だから父は、母を喜ばせたい一心で、新しい物をプレゼントしているつもりだったのだろう。

 こんなふうに、いつまでもみずみずしく感じられる父の存在が、どうして死によって消滅したなどと思うことが出来ようか。

 

 生きるも死ぬも、命の形が違うだけなのだと思う。人間の存在は、実体と他者からの知覚、相互の関係性の三要素によってもたらされると最近読んだ本に載っていたが、「生きる」という命の形が終わった後も、父の存在は私たち家族の生活の中に深く溶け込んで残っている。父の戒名は「釈往還」というが、これは魂が浄土に昇っても、巡り巡ってまた現世の家族の元に戻ってくるという意味があるのだそうだ。父はきっと新しい形を取って、いつまでも私たちと一緒にいてくれる。命のエネルギーの循環が終わるその日まで、私たちも父と同じように生きていく。

 

 「お父さん」呼べば「はあい」と返事する そのあたたかさ いのちの温み(2017/6/2)