新緑の箱庭

日々の雑感の掃きだめとして。

父の話

 

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 幸運を電波に乗せてきらきらと死にゆく父のそばへ届ける(2017/05/21)

 

 優しくて、おおらかな父だった。

 ガソリンスタンド勤めで、昼も夜も休日もなく働いていた父は、仕事帰りに必ずコンビニに寄って、私と弟におもちゃやお菓子を買ってきてくれた。

 ガサガサというビニール袋の音が、帰宅の合図。寝床でまどろむ私たちは、飛び起きて「おかえりー!」と父の元へ(正確にはお土産の元へ)駆け出していた。

 

 母には怒られていることの方が多い父だった。

 何度言っても、家のパソコンや家電や家具を勝手に買い換えてしまう。母がどれだけ声を張り上げても、へらへら笑っている。そして私たちには、ポケットの小銭やどこからダウンロードしてきたのかわからないオリコンヒット曲の自作CDをくれる。お金があるのかないのかも分からなかったが、やはり父は優しかった。

 

 たまにある休日には、公園や鄙びたダムに連れて行ってくれることもあった。全く釣れない釣りや、下手なゴルフの打ちっぱなしに付き合わされることも。大きな旅行や観光地に行った思い出はあまりない。私が中学生になって勉強ばかりするようになってからは、徐々に話す機会が減っていったように思う。

 東京大学の赤本を見せたときは、「ほんとに受けるの?」と一言言ったきりで、ついぞ進路に口を挟むこともなかった。私は進学を機に実家を出て、そこから父との思い出は途切れている。

 

 

 病気が分かったのは5年前の秋だった。

 初夏を過ぎたあたりから、父は背中の痛みを訴え始めた。湿布を貼ったり整骨院に行ったりしたが、よくならない。病院に行っても、筋膜炎を疑われてそれきり。3ヶ月を過ぎて仕事がままならなくなってから、初めて精密検査を受けた。

 ステージ4の肺がんだと、私は母からの電話で告げられた。

 よく分からなかった。何か大変な不幸が我が家にやってきたはずなのだが、仕事で実家を離れている自分には現実味がなかった。

 告知後に初めて父の顔を見たのは、市立病院のベッドの上だった。父は「大丈夫だよ」と言って、微笑んだ。周りにいる家族だけが泣いていた。

 抗がん剤の投与が始まって、父は入退院を繰り返した。体調の悪い父は、あまり物が食べられない。母があれこれ料理を試しても父の喉を通らず、痛みばかりが酷くなっていった。食卓に残った料理を見て、母はずっと辛そうだった。

 最初の頃、週末はできるだけ実家に帰るようにしていたが、家で待っているのはぐったりした父と、疲れ果てて憔悴しきった様子の母。「大丈夫?」とも、「無理しないでね」とも、「頑張って」とも言えなかった。明らかに大丈夫ではないし、無理しないといけないし、もう頑張れないところまで頑張っているのだ。私は無力で、できることは一つもない。母をこれ以上刺激しないようにするのが精一杯で、いつも逃げるように実家を出た。

 

 実家から離れているのにもかかわらず、ひとりで泣くことが増えた。今一番辛いのは父と母で、私はそこから逃げ出したのに、被害者のふりをする権利すら持っていなかったのに、それでもひとりぼっちの部屋にいると不幸が身に堪えた。私がいくら泣き叫んでも、懇願しても、大好きな父は刻一刻と死に向かっていくしかない。身体の痛みが止むこともない。人生で初めて、逃げ場のない苦しみというものを経験した。

 

 新しい外国人と会うように毎日増える薬の名前(2017/5/29)

 

 年度が替わると、父の病状はいよいよ過酷さを増した。自宅での療養が困難なほど疼痛が酷くなり、緊急入院。肺の腫瘍は野球ボールほどに大きくなり、骨盤や身体全体に転移して、激しく痛んだ。

 月に2回ほどしか実家に顔を見せていなかった私は、「お父さん、死ぬよ」という母の言葉で、やっと目を覚ました。仕事が終わってからJRに乗って、病院の面会時間ギリギリに滑り込み、父の顔を見る生活が始まった。

 

 父は眠っていることが多かった。と言っても、鎮痛剤で昏睡状態になっているだけで、意識のある間はずっと激しい痛みが続く。わずかに意識があるときは、「蘖ちゃん、来たの・・・・・・危ないから無理して来なくていいんだよ」と、力なく声をかけてくれた。やっぱり、父は優しかった。

 家族が病室に泊まり込むことも増えた。鎮痛の薬は、2時間に1回のオキノームと、激しい痛みを治めるためのフラッシュ。看護師の方に任せるのが普通だが、病室に家族がいないと父は不安がった。私の泊まり番の時、父の声で飛び起きて、あわてて薬を水に溶かして飲ませたら、配分がうまくいかず失敗したこともあった。「水の量を考えて」と一言言われたのが、父に怒られた最初で最後の経験だった。

 

 病院食を受け付けない父に、母は何か食べられる物をと考えて、手作りの料理を持ってくる。しかし大抵は何も食べることができず、衰弱は進んでいく。「せっかく作ってきたのに、なんで食べないの」と母は父を罵倒して、あんまりだと思って止めに入ると、父は母の味方をした。私が病気から逃げている間に、もがき苦しみながら癌と向き合っていた二人には、新しい絆が芽生えているようだった。私は部外者で、そこに入り込む余地すらなかった。泣きながら病室を出て、満月の下で帰りの市電を待ちながら、「死ね!」と何度も叫んだ。何に死んでほしかったのだろうか。父に? 病気に? それとも、自分に?

 もう、父に生きてほしいと願うことすら怠慢だと感じた。生きている限り、父は苦しみ続けなければならない。頑張ることをやめることができない。それはあまりにも酷だった。早く眠るように心臓がゆっくり止まって、父を楽にしてあげてほしいと心から思った。それでも心臓は止まらない。命も終わらない。

 生きているのは人間なのに、なぜ命は人間の思いのままにならないのだろう? 結局私たちはいつも、自分よりも大きな存在の何かに振り回されてばかりだ。私たちは肉と筋で包まれた骨の鎖のような物体で、そこにたまたま命のエネルギーが循環しているだけの儚い存在なのだ。意識は脳内の電気信号の閃きで、命が終われば藻屑のように消え去るだけ。優しい父も、そうしてもうすぐいなくなる。

 それに気づいてから、「祈る」という言葉が好きになった。父や母とのラインで、疲れ果てて「ありがとう」も「ごめん」も「頑張って」も、「無理しないでね」も「よくなるといいね」も何も言えないとき、「明日は今日より少しは痛みが取れますように」と書くことはできた。こう書けば、もし癌が悪化しても責任は全部神様が持ってくれて、優しくしたい気持ちだけ父と母に届けられる。明日は少しは眠れますように。物が食べられますように。薬が体に合いますように。それだけ唱えて、後は淡々と暮らした。

 

 副作用なく激痛を和らげる 素敵な薬「死」という薬(2017/05/31)

 

 6月の終わりになると、もう病院で出来ることは残っていなかった。新しい痛み止めが効いて父の身体が少し楽になった一瞬の隙を見計らって、母は父を在宅看護で看るという選択肢を取った。父は家が好きだった。帰りたいというのは、本人の何よりの希望だったのだろう。実家の和室に介護用ベッドと在宅用酸素、車椅子などが次々と運び込まれた。

 病院への泊まり込みの必要がなくなり、毎日の仕事終わりの病院通いをやめたことで、私自身も精神的に少し楽になった。父もこのまま、小康状態を保って生き延びられるのではないだろうかとも思った。

 仕事をしていると、父からはラインでビデオレターが届くようになった。「今日はお母さんに散髪をしてもらいました」「この前の動画は寝ぼけちゃったので、今日はちゃんと目を開けて撮ります」「蘖ちゃん、無理して帰ってこなくていいからね。それでもやっぱり、会いたいけど」死の間際にいながら、父は優しくて、暖かくて、可愛かった。

 7月最初の週末に実家に行くと、父はベッドの上で微笑んだ。まだ五十歳なのに、父の髪は白くまだらになり、太ももにはほとんど肉がなかった。自分で拾ってきて飼いはじめた黒猫を撫でて、うれしそうにしていた。「お父さん、またね」と言って実家を後にするとき、目を細めて、「またね」と、力なく手を振ってくれた。それが最期になった。

 

 父が病気になってから、気が沈んでまともな生活をしておらず、その日も床で眠りこけていた私は、いつものように予習の済んでいない一限目の授業の心配をしながら出勤の準備を済ませた。家を出る直前、ラインが来た。実家に泊まり込んでいる弟からだった。

 「お父さんが、救急車で運ばれた」

 何も感じられなかった。冷静すぎて、逆に奇妙なほどだった。まず学校に電話をかけて、年休の申請をした。次に母に電話をかけると、救急車の中から、「気をつけて来て」と言われた。まるで仕事に行くように家を出て、車に乗り込み、職場とは反対方向の高速のインターへ向かった。

 

 病院に着いたのは、父が息を引き取って三十分ほど後だった。観察室に駆け込むと、父の亡骸を囲んで、母と二人の弟が泣いていた。父は本当に息絶えた直後という様子で、目と口はぼんやりと開き、うっすらと緑色の顔をしていた。油絵で人間を描くときに肌の下地に緑を塗るという話を聞いたことがあるが、理にかなっているのだなと思った。

 手を握ると、まだほんのりと暖かかった。本当に、つい先ほどまでは生きていたのだ。どんなに意識がなくても、痛みにもだえていても、生きてはいたのだ。でも、もう死んでしまった。その事実が、私にはまだ飲み込めなかった。

 泣きわめいている私たち家族に、看護師の方が申し訳なさそうに今後の話をしに来る。母は取り乱していて話が出来そうになかった。弟も夜通し父の看護をしていたのである。家族の中で、私だけが無様に睡眠を取り、意識をはっきりさせていた。売店にLLサイズの浴衣とバスタオルを買いに行って、看護師さんに手渡した。

 葬式まで、あらゆる仕事をこなした。葬儀屋に連絡を取り、父の友人だった住職の寺を検索から無理矢理探し出してお経を上げてもらうよう頼んだ。棺桶を選び終わったあたりで母の友達がどやどややって来てくれて、そこからはすべて順調に進んだ。父はあっけなく焼かれて、骨になった。

 初めて骨を見たとき、生前の父の姿とは全く結びつかず、呆然とした。胸のあたりを見ると、父を苦しめていたあの大きな腫瘍は燃え尽きて見当たらない。やっと父は癌から解放されて、自由になったのだった。

 

 幼いころは、人間の存在は、命が終われば消え去るものだとなんとなく考えていた。しかし、父が死んで丸4年が経とうとしている今でも、私は父の姿や声をありありと思い浮かべることが出来る。スタンド勤めの時に着ていた青いシャツや、くしゃくしゃの笑顔を、容易に思い出すことが出来る。部屋に飾った写真を見れば、辛かった闘病の日々も生々しく蘇る。

 父が生前母に黙って家具や家電を買い換えていた理由も、今ならなんとなく分かる。母は倹約家で、大きな買い物をするときは慎重になり、結局壊れて使えなくなるまでボロボロの物を使い続けるのだ。事前に許可を取ろうとすれば、いらないと言われるに決まっている。だから父は、母を喜ばせたい一心で、新しい物をプレゼントしているつもりだったのだろう。

 こんなふうに、いつまでもみずみずしく感じられる父の存在が、どうして死によって消滅したなどと思うことが出来ようか。

 

 生きるも死ぬも、命の形が違うだけなのだと思う。人間の存在は、実体と他者からの知覚、相互の関係性の三要素によってもたらされると最近読んだ本に載っていたが、「生きる」という命の形が終わった後も、父の存在は私たち家族の生活の中に深く溶け込んで残っている。父の戒名は「釈往還」というが、これは魂が浄土に昇っても、巡り巡ってまた現世の家族の元に戻ってくるという意味があるのだそうだ。父はきっと新しい形を取って、いつまでも私たちと一緒にいてくれる。命のエネルギーの循環が終わるその日まで、私たちも父と同じように生きていく。

 

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