新緑の箱庭

日々の雑感の掃きだめとして。

28歳

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今年の誕生日で28歳になった。


世間的に言えばもう立派なアラサーであるが、同僚の先生から誕生日プレゼントをもらったり、ケーキを買ってお祝いしてもらったり、幸せな1日を過ごしたと言えるだろう。

もう10年近くやっているTwitterにも、親しい知人からお祝いのメッセージが届いた。自分はあまり筆まめな方ではなく、知り合いの誕生日にきちんとお祝いを述べることをしてこなかったために、嬉しさ半分、申し訳なさ半分といったところだ。今年こそは少しは他人に気を配ろうと思い直す。


思えば数年前までは学生だったのだが、その頃は大学内でSNSが非常に流行っていた。300人以上のフォロワーとつながり合い、誕生日ともなれば、先輩や後輩、同輩からのメッセージで1日中通知が鳴り止まなかったものだ。嬉しくはあるが、流石に返事をする方はかなり大変だった。SNSでの機械的な祝いのメッセージが苦手になったのも、この経験が元になっているのかもしれない。


SNSのつながりと言うのはひどく手軽ではあるが、はっきり言って脆いもので、フォロワー欄を見れば、今では全く連絡を取らなくなった見知らぬ誰かのアカウントの残骸が並んでいる。そもそももうこのアカウントの持ち主はTwitterにはいないのだろう。自分だけがSNSから離れられず、いつまでもTLにしがみついているような気がして、勝手に虚しくなり、人間関係の干物とも呼べるフォロワーのアカウントを一つ一つリムーブしたこともあった。フォロワーが10分の1に減った自分のアカウントは、料理関係の動画と今もリアルで連絡をとっている友人のツイートがたまに23つ流れてくるだけの大変寂しいものだったが、それが逆に私をせいせいさせてくれた。


一方、別の非公開アカウントに顔を出せば、そこには10年来ひたすらそれぞれ呟き続けている旧知の友人たちが、今日も勝手に何かに夢中になり、楽しそうに荒れ狂う姿を見せてくれる。直接リプライを飛ばす事はないが、同じ話題についてつぶやけば、やまびこに返事をするように気の置けない反応が返ってくる。直接会うことはなくても、心地良い空間がそのTwitterの中にはいつも広がっている。


公開アカウントの方でつながっていた300人とも、別に仲が悪かったわけではない。ただ、一緒に過ごしていた環境が大学卒業によってなくなり、ライフステージの変化によって相手には夫ができて、子供が生まれ、家を建てているのに対し、こちらにはそのような出来事は一切なく1Kのアパートでゴロゴロしており、300人がそれぞれの人生を歩き出したのだな、と言う感慨が強く胸に湧いてきただけだ。自分の人生さえままならない中で、全く別のルートの途中にいる他人の幸せを眺めて何になるだろうか?  彼らとは、道の交差点でたまたま同じひとときを過ごしただけであって、もともといつまでも一緒にいるような関係ではなかったのだ。


そのような中で、長い間一緒に寄り添ってくれる友人とは、なんと貴重な存在であろうかとこの歳になってつくづく感じる。連絡を取ってくれること、こちらに興味を持ってくれること、並走している道の向こうから手を振ってくれること、全てが相手への関心なくしては成り立たない貴重な出来事だ。


「誕生日おめでとう」のメッセージをもらうたび、現実でもインターネット越しでも、そばにいてくれる人たちのありがたさを噛み締める。そうして、私は今日も30代までの残り少ない時間を、一日一日過ごしていく。


自分の周りにいる全ての人があたりまえの存在ではなく、きっといつかは別れていく時が来るのだから。その時まではこの縁を目一杯楽しみながら、私は、私の人生を生きる。