新緑の箱庭

日々の雑感の掃きだめとして。

残り香

f:id:may_negi:20201219231053j:plain 

冷蔵庫を開けると、いつもバニラの匂いがする。

 

庫内にもうバニラエッセンスの瓶はない。一度使ったきり、蓋を開けることもなく賞味期限切れで処分したのだ。なのにドアを開けるたび、いつもこの匂いが鼻を掠める。丹念に拭いても、消えてくれない。

 

最後にバニラエッセンスを使ったのは何年前だろうか? 彼氏と別れたのは1年と4ヶ月前だから、それよりも少し前になる。確か、春の頃じゃなかっただろうか。

 

彼は寺の息子で、車で4、5時間はゆうにかかる遠くの街に住み、家業を手伝っていた。律儀な彼は2ヶ月に一度、水色の軽自動車をトコトコ走らせ、私のアパートを訪ねてきてくれた。

 

当時は私も田舎に住んでいたため、彼が遊びにきてくれても、2、3回外出を繰り返せば出かけるところもなくなってしまう。休日の良い計画が浮かばない私に彼が提案したのが、プリン作りだった。

 

「修行中に料理当番をする時があってさ。使える材料は限られてるんだけど、工夫してプリンもどきを作ってデザートにって出したら、みんな喜んでくれたんだよな」

 

遠距離恋愛になる前、彼は実家の宗派の総本山にあたる北陸の寺へ修行に出ていた。そこで過ごした1年半ほどの日々を、彼はいつも懐かしそうに口にした。大学時代は1人でまともに自炊もできなかったのに、彼は少し変わって帰ってきた。

 

必要なのは蒸し器とプリン型だが、私の家にはない。私の家から10分ほど麓に下った町のホームセンターに行き、ああでもないこうでもないと、2人で探して回った。

 

手順自体はシンプルだった。卵と牛乳と砂糖を混ぜ、すが立たないように漉し器に通すと同時に、小鍋で砂糖を溶かしてカラメルを作る。買ってきたばかりの紺色の陶器のカップにそれらを流し込んだら、蒸し器をセットした鍋に入れて、コンロに火をつける。彼の作業は手際良く、2人でやるとあっという間だった。

 

出来上がりを待つ間、彼は故郷の友達や家族のことを話した。今も地元に残っている彼の友達は多くない。聞き覚えのある名前とともに、山に登ってきたとか、酒を飲んだとか、代わり映えのない日々の報告が訥々と過ぎる。

「ほら、この前の冬、お前も会っただろ。あいつは今度結婚するんだ。」

そう言われて、私はあの日の古い飲み屋で同席した彼の旧友を思い出そうとする。だが正直、似たような顔が曖昧に脳裏に浮かんできて、誰が誰なのか判別がつかない。

 

 2ヶ月前の彼との休日は、私の家ではなく、彼の実家で過ごしたのだった。長く付き合っているのだから、親御さんへの挨拶程度は仕方ないと、半ば引きずられるような形での訪問だった。

彼の両親は歓待してくださったが、「それで、いつ頃結婚するの?」という母親の台詞に、私は何も言えなかった。

 

プリンはなかなかの出来だった。多少気泡は入ってしまったが、初めて作ったとは思えないくらい、卵の味がしっかりとする優しい甘さのプリンだった。奥までスプーンで掬うと、少々苦過ぎるカラメルが顔を出すのと一緒に、バニラが仄かに香った。

おいしいねぇ、と素直に声が漏れて、私は彼と笑った。一緒に作った夕飯のハンバーグも上々だった。

大好きな人と一緒にいるのは、楽しく、暖かく、幸せだった。一年半の修行の後、彼がまた私のところに戻ってきてくれたのも嬉しかった。2ヶ月に一度しか会えなくても、その一晩を一緒に過ごせれば満足だった。彼が生きて、私の横に存在しているということ。そのささやかな幸せを噛み締めて、私はいつも見えない何かに感謝していた。

 

それでも、うまくいかなかった。

働き始めて数年、仕事はやっと軌道に乗り始めていた。私は教師で、いつかは自分の母校で教鞭を取るという夢がある。高校時代からずっと拘り続けてきた夢だ。大学を卒業する時だって、就活はせず、地元の教員採用試験一本に目標を絞ったのだ。

赴任が何年先になるのか、それは誰にも分からない。彼は、教師が続けたいなら一度辞めて結婚してから彼の地元で再就職すればいいと言ったが、それでは意味がないのだった。

また、数年前に父が死んで、母を1人残して遠い地で嫁入りしてしまうのも気がかりだった。…いや、それは言い訳で、本当は私が知らない土地で人生を一から始めるのがとても不安だったのだ。ここにいれば、慣れ親しんだ家族も友達も、確かな収入もある。今まで自分の力で積み上げてきたものを全部捨てて彼に着いていくのは、とても心細かった。

 

きっと彼が地元の話をたくさんしたり、実家の家族や友達と会わせようとしたのは、私の不安を拭いたいという彼なりの思いやりだったのだろう。お前が行こうとしている場所は、そんなに悪いところじゃないよ、と。

けど、結婚の話題を持ち出される度、私は自分が彼の思惑に囲い込まれて、ジリジリと追い詰められているような感覚に陥った。このまま逃げられなくなって、時間切れになって、なし崩しに地元へ連れていかれるのではないか? 

そんな妄想が頭の中を支配して、私は彼から連絡が来るたびに苛立ち、自分でも分かるほど刺々しくなっていった。いつしか彼はこちらの機嫌を伺って不安そうな顔をすることが多くなったが、それも私をイラつかせた。なんで私が悪者になっているの?

私は話を聞いて欲しかった。私の夢や不安にもっと寄り添って欲しかった。でも、彼にそのことを告げても、いつも宥めすかされ、丸め込まれ、地元の話ばかりされた。

 

しんどい、と思うようになった。

 

夏のある日、テレビ電話でいつものようにたわいない話をしている最中、何気なく溢れた彼の一言。

「それで、そろそろ結婚してくれる気になった?」

胸の中で何かが音を立てて切れるとか、心の堤防がいよいよ決壊して気持ちが溢れ出すとか、巷にはこういう時に使う色々な表現があるが、実際にその場面に直面した時、頭に浮かんだのは蝋燭の火だった。確かに灯っていたはずの炎は、彼の一言で一瞬で吹き消えてしまった。後に残ったのは、白く立ち昇る煙のような虚しさと、ひんやりとした暗がりだった。

私はあなたの人生の駒ではない、あなたのために結婚して寺に入る義理はないと、乱暴に言い捨てて回線を切った。

長く付き合ってきた大切な彼と、本当はもっと丁寧に別れるはずだった。けどできなかった。一思いに引きちぎらなければとても断てないほど、私たちの関係はもつれて絡まってしまっていた。

それ以来、彼には一度も会っていない。

 

別れた次の春、私は運よく母校に赴任した。夢が叶ったのは嬉しかったが、仕事はキツく、休みはない。週7の出勤の合間、自分の右手の甲にずいぶん皺が増えたことに気づく。時は進み、私は確実に歳をとっていく。

 

あの時もし彼を選んでいたらと、不毛な考えに囚われることもある。元気でやっているだろうか、寺の仕事は忙しいだろうかと心配してみたくなる時も少なくない。

でも、私はこちらを選んだ。大好きだった彼を捨てて、こちらの道を取ったのだ。私はこの道をよそ見することなく邁進する責任がある。いつか歳をとって、皺々になって、その時に1人だったとしても、泣き言を言う権利はない。彼を傷つけた代償に、私は自分の力で幸せになると決めたのだ。

それでも、どうしても時折考えてしまう。ただ一緒にプリンを作って食べるような、そんなささやかな幸せがあるだけでよかったのに。そのほかには何も要らなかったのに。なぜ、たったそれだけのことが上手くいかなかったのだろう、と。

 

冷蔵庫を開けるたびに、今もバニラの匂いがする。

消えたはずの蝋燭から、今日も煙が立ち上る。